最近割とご機嫌な感じで日々過ごせていました。
時どーき若干変な時もあるけれど、かなり自然な感じで日々を過ごせていました。
何で精神科に行かなくてはいけないのかもよくわかんないし、行く意味ないじゃんみたいな。
何なら今日精神科に行ったのですが、のんきに担当医の方にも「私ってなんでここにきてんのか場違いですよね笑笑」と大爆笑。
なんだか滑稽だし楽しくてずっと黄色い声でキャーキャー言ってた感じでした。薬局でもすべての返答の語尾に「♪」がつくレベルで。
でもさっきまたちょっとしたつまずきで少し具合が悪くなりかけて、「ぁー、私ってそうだったな」って思い知らされました。
私って知能的に低いのか、そういった症状の出方なのか、なんか調子がいい時は調子に乗りまくりノリノリなので、しんどい時のことなんてすべて忘却しています。
なので、そんな時はしんどい時のことを語ろうとすると、うまく表現できなくてまるで全てうそを言っているような感覚に陥ります。
自分がしんどい時、心にうかんだ言葉は覚えているから、それをそのまま復唱するけれど、元気な時はしんどい時の自分の感情や感覚に感情移入できないんですよね。
なので話せば話すほど今の自分と違い過ぎてうそっぽく感じるし、自分でもそんなことってあるの??と疑心暗鬼になってきてしまうという。
とはいえ、私はそのしんどい時に動けない・話せない系になるというか、うまく自己表現ができなくなってしまうので、どうしてほしいかを正常な時に予め周りに伝えないとなんですよね。
しんどい時は精神不安定で、ちょっと行動や思考が危ないし、とにかくしんどいので、その時になったら自分で制御不能なのでサポートをお願いしたい、けど自分でもその状況がうまく説明できないという。
そういえば私の伝え方が悪いのは百も承知の上で、そんな時にできればやめてほしいなって思う相槌や言葉があって。
「みんなそんなもんだよ(笑)」
「考えすぎ(笑)」
「気の持ちようだよ(笑)」
「でもいま元気じゃん!!大丈夫だよ!!」
そういうのはちょっときついな。
私、普段はとにかく騒がしいかんじだし、能天気なので、しんどい時の話をしたら、本当に言葉だけ浮いているのもわかるんだけど。
みんなそんなもんだよ→みんな同じなのにうまく対処できない「私」は人として狂っている。生きていてはいけない。邪魔。迷惑。
考えすぎ・気の持ちよう→何も考えてなくても、何の前触れもなく急にしんどくなることも多くあるんだが……気の持ちようで変わるというが、普段はポジティブ能天気。
大丈夫!→大丈夫だったらわざわざ周りにいわない。勝手に決めつけられても大丈夫じゃないことに変わりはない。むしろ大丈夫と言われるたびに、常に元気でいろというプレッシャーを少し感じて、それが原因で苦しくなることもあるので気軽にいうのはやめてほしい。
という感じ。
まぁ……うちの両親に私は上の声掛けを何度やめてほしいとお願いしてもいわれてしまい、そのたび体調に悪影響だったので、最近はほとんど連絡を取らなくなりました。
しんどい時って自分で対処できるときと、他人に話したりサポートしてもらって少し負担を軽くさせてもらって乗り越えるの二つがあると思うんです。
元気な時は一緒にいて心から楽しめる大切な大切なパートナー、あたたかな家族に恵まれていますが、しんどい時は誰に近づいてもうまくいかないから、私は一人で乗り越えてる感じです。
元気だった時に周りかけかけてもらった言葉とか、楽しかった思い出とか、お医者さんのアドバイスとか、元気だった時にため込んだパワーとスタミナ勝負みたいな。
神様は乗り越えられる試練しか与えないって言葉、ありますよね。
すてきだなと思います。けどあれ、私半分、嘘だと思っています。
確かにしんどい壁は乗り越えられることがほとんどです。でも乗り越えられないこともあると心から思います。
私は躁鬱がゴタゴタして飛び降りてから、半分あきらめたというか、もう一回死んだようなものというか、いつ死んでも仕方ないな、いいやって思って生きています。
ある意味、「生きなくては!」と気張らなくなってとても気楽。
でもやっぱ、「もしまた症状が悪化してしまったら、死んじゃうのかな」と思うと泣けてくるんでやっぱ心の底では死にたくないんでしょうね。
とはいってもしんどい時は周りに助けを求めたところでうまくいかないし、自分じゃどうにもできない。
元気な時は生死も意識してないし、なんともないんですが、しんどい時は綱渡り状態。
ちなみに病院の先生は自然に話しているようで、言葉や行動に気を使った上で状況がよくなるアドバイスをしてくださるので、誰よりしんどい時に助けになってくださいます。
何とかのらりくらりうまくやり過ごして、自ら命を絶つことなく、一生を終えられればと心から思います。